2015年10月19日月曜日

ペリー来航で西洋音楽に触れた日本人



横浜開港記念館の「その音、奇妙なり」に足を運ぶ。

ペリー来航時の音楽の様子についてとても興味深い資料がたくさんある展示だった。

ここから先は、音楽と歴史に興味が有る人にだけの話。


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日本人がはじめて西洋音楽に触れたのがこのころ。

ペリーの船に乗ってた楽隊が横浜や、久里浜、下田などで、演奏をした記録が残っている。

曲目はオースザンナとかのフォスターあたりではないかと推測されているのだけど、ペリーがきたのが1853年で、フォスターが活動を開始したのも1845年くらいからだから、ちょうど、アメリカ本国で流行っていた頃なんだろう。

それ以外にはアルプス一万尺(ヤンキー・ドゥードゥル)やフィリップ・フィル作曲の大統領行進曲、アメリカ国家などを演奏した記録が残っている。

しかし、当時のペリー来航の絵は残っているが、日本人画家には楽器の知識もなにもないから、楽団らしき人が描かれていても、管楽器の菅の部分なんてぐちゃぐちゃになっていて、ホルンだか、トロンボーンだか、コルネットだか、トランペットだか、さっぱり区別がつかない。

なんだか怪しげな、かたつむり状の管楽器が描かれているだけである。

で、当時の日本人が西洋音楽をどう受け止めたかというと、このころ日本にいたモース(大森貝塚とか見つけた人)の手記によれば

「日本人は音楽をちっともわかってないのである。

彼らはいつも我々の音楽を、『なんで同時にこんなにギャーギャーたくさん音がなるのか、なんで急に止まったり、走ったりするのか』、と不思議がっている。

だいたい歌を歌わせても、ハモりができなくて、全員で同じ音を歌うし。

日本人って、そもそも音楽センスないんじゃねーか。」(意訳)

という記録を残している。

ところが、それからしばらくすると、

あっというまに見よう見まねで、日本人の楽団が育ち、日本人は西洋音楽をものにしてしまったらしく、

(明治になって数年頃にはすでにワーグナーやベートーベンなんかの鑑賞会も行われていたようです)

その数年後モースは

「ごめん、やっぱこないだのなし。

すでに立派に演奏できてるし、日本人のセンスの問題じゃないわ。

単に練習不足だっただけみたい。」(意訳)

と記録している。

で、その後、鹿鳴館だの音楽取調掛だのもあって、

その後の西洋音楽は、あっというまに日本人の基礎教養となったしだい。

よく日本人は他国の文化を取り入れて、自分のものにしてしまうってよく言われるけど音楽もまさにそうだったようで。

資料も少なかっただろうし、大変だったんだろうな〜、と先人の苦労もいろいろしのばれるのです。

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